2009年,明けましたね。
なかなか更新できていませんが・・・,今年もよろしくお願いいたします。
今回は,ちょっと固い話になるかもしれませんが
カナダでの「実習をしながらこのテーマについて考えて書きなさい」という課題とともに,新年のご挨拶と決意と願いを綴ってみます。
テーマは”Special”
・「特別」とはどのようなことだとあなた自身は考えますか?(「特別」という言葉の定義)
・「障害児(障害のある子ども)」が「健常児(障害のない子ども)」と同じクラスで学ぶことに関してどう思いますか?
年齢,性別,人種,能力,等々・・・
いろんな違いを個性と捉え,いろんな「差」をなくしていこうと
バリアフリー,ノーマライゼーション,ボーダレス,平等,公平,公正・・・
いろんな言葉が生まれて駆け回っています。
保育園でも,「障害児」と呼ばれる子どもたちと接する機会も多々あります。
「障害」 (最近では,「障がい」「障碍」と書くこともあります)
その一言がどこから来ていて
その言葉と一緒にどこへ向かっていったら
一人一人が幸せに生きていけるんだろう
そんなことを思いながら自分自身を綴った課題です。
(青字は先生からのコメントです)
LEARNING ACTIVITY: DEFINITION OF “SPECIAL”
My definition of “special” is:
Something/someone cannot be dealt with in the same way as something/someone else.
I think “extra support” has a lot to do with environment, both physical and emotional environment. ü For example, in terms of language and culture, I could be “a person who needs extra support” in Canada while I might be a “typical” person in Japan. üRelevant example. For example, a person who cannot walk by himself might be “a person who needs extra support”; however, if we arrange and provide appropriate “environment” for someone cannot walk by himself, “cannot walk” is not “extra support” any more. Yes! You’ve got it…one of the main principles of inclusion. Therefore, I think it is very natural that we include “children who need extra support” into a centre with “typical” children. üThen, ideally, we have to change the environment until we do not feel “extra” any more in the interaction with the “children who need extra support.” I believe everybody needs “support” and that “extra” comes from environment, not from the children.ü
I am sad that this is only out of 1 mark J…how about 100%?
1/1
「障害児」は,かつて英語では”special needs children”と表現されていましたが
今では”children with special needs”と表現されています。
両者の違いは
「障害児」という一言で,子どもを「分類」してしまうか
「障害とともにいる(特別なニーズがある)」と,あくまで子どもを「とりまく状況」として捉えるか
言葉の上でも”children”と”special needs”が「切り離されて」います。
「障害」と「児(子ども)」を「切り離す」ということは
「障害」は「子ども」の中から出てくるものではなく,
外からやってきて(たまたまそこに)くっついていると考える
ということ
では,「障害」はどこにあってどこからくるのか
カナダで生活をしていた時,一番苦しんだのは,「言葉」でした。
英語が(日本語のように)聞こえない・話せない・読めない・書けない・・・
皆が「普通に」「あたりまえに」「簡単に」やっていることがなかなかうまくできない
周囲との「差」に苦しみ,「不自由さ」の中で,神経をすり減らす・・・
でも,そんな自分が日本に帰ってくれば,
日本語は(それなりに)しっかり聞けるし話せるし読めるし書けるし
「普通に」「あたりまえに」「簡単に」することができる
周囲との「差」は,カナダにいる時と比べたらほとんどないし
「不自由さ」を感じることもほとんどありません。
歩くことに不自由を感じる人が車椅子に乗っていたら,その人を「障害者」と見る人もいるかもしれません。
階段や坂道,狭い道等で,その人が「不自由」を感じ「特別な援助」を必要とすると考えれば
そこには確かに「障害」があります。
でも,もし,「環境」が変わることで,車椅子の人が「不自由」を感じずに,
「特別な援助」を必要とせずに生活をすることができるようになったとしたら,
「車椅子に乗っている人」はもはや「障害者」ではないはずです。
「言葉」というもの一つとってみても,「車椅子」というものを考えてみても
「環境」が変わることで,同じ自分が「障害者」にも「健常者」にもなりえます。
「障害」は,その人が作り出すものでは決してなく
その人と「環境」との間に生まれるものです。
誰もが,今生活している社会の中で,たとえほんの一瞬でも
「不自由さ」を感じ「特別な援助」が必要だと感じるのであれば
それが「自分」と「社会」の間にある
「障害」
となるのだと思います。
そう考えると,「障害」は「自分自身が克服すべきもの」ではなくて
社会とその人の間にある「取り除くべき壁」
そんな一つ一つの「障害」に
みんなで正面から向き合って
みんなで内からも外からも「壁」を壊していくことができれば・・・
そんなことを思いながら,
「今年の初めの言葉」として残しておこうと思います。
<山本 信>